東京の酉の市―酉の市は江戸東京独特の祭りである。酉の市とは、11月酉の日に立つ縁起物の熊手を売る市のことで、鷲(おおとり)・大鳥系の神を祀る神社で、それがおこなわれる。今年2004年の酉の日は3度あって、11月2日が一の酉、14日が二の酉、26日が三の酉となっている。酉の市の祭りで、特に有名なところでは、台東区の大鷲(おおとり)神社のそれがまずあり、大変な人出でにぎわう。新宿区の花園神社、目黒区の大鳥神社などでも例年、実に盛況な酉の市がおこなわれている。今回取り上げる、足立区花畑の鷲神社のそれは、発祥の地の酉の市であって、もっとも歴史のあるものである。
1 元祖本家の酉の市
酉の市の発祥の地が江戸市中より3里も北の郊外農村、花又村の鷲大明神であったことはすでに述べておいた(注1・2)。宝井其角の俳句に「はるを待つ事のはじめや酉の市」とあり、明らかに花又の酉の市を詠んだものであることがわかるうえに(注3)、『江戸砂子』の記述にもそれが見られることから、少なくとも元禄期の17世紀後半から18世紀前半にかけて、これがおこなわれていたことが確実である。この時代、花又以外での酉の市はなされていなかったし、千住の勝専寺や浅草の鷲神社のそれは19世紀に入ってから、ようやく始められたに過ぎない。その後、花又の市を本酉・元酉・大酉、千住のそれを中酉、浅草のそれを新酉と称するようになったのであるが、花又を上の酉・奥の酉、千住を中の酉、浅草を下の酉・出店の酉と呼ぶこともまたあった(注4)。近代期以降の花又村は町村合併によって花畑村となり、今日の足立区花畑地区となったが、鎮守の鷲大明神は今では大鷲(おおとり)神社と呼ばれているものの、かつては鷲(わし)大明神という呼び方が一般的であったし、鷲明神を俗に「おとりさま」ではなく、「おわっさま(御鷲様)」と呼びならわす古老は、大正時代頃まで見られたのである(注5)。『新編武蔵風土記稿』には、「鷲明神社、村の鎮守なり。年々十一月酉の日には必都鄙参詣のもの貴賤群集す。これを酉のまちと號す」とある。さらに『四神社閣記』には、この神社の由緒を次のように記している。
酉町鷲大明神。足立郡花又村に在。毎年十一月酉の日に祭礼あるゆへに酉の町と呼ふ。酉の日三ツ有年ハ中の酉主とす。吾妻鏡に所謂鷲宮ハ埼玉郡鷲宮村に在、天穂日命・大背飯三熊野大人・天夷鳥命を祭る。しからは此社も同神なるへきに神躰釈迦仏の鷲に乗たる像也。其制丸き鏡のことく径五寸許なる中に置揚に刻れり。地は金色にして輪郭有、赤銅の如くにミゆ。相伝へて新羅三郎源義光朝臣の持ける所也と云。常ハ別当正覚院に蔵す。三十三年に一度本社に遷し諸人に拝せしむ。毎年二月廿八日祭礼の時本社に移せとも開扉に及ハすといふ。
『吾妻鑑』にも出てくる埼玉郡鷲宮村の鷲宮(今日の埼玉県鷲宮町の鷲宮神社)と、本社が同系の神祠であったろうとのここでの説は、まったく正しいものであって筆者の見解もまたそうであり、関東地方の鷲・大鳥系の神社は今いわれているような、日本武尊を祀った神祠ではもともとなかったはずである(注1)。鷲の乗った釈迦仏を神体としていたともあるように、それは本来、聖鳥としての鷲を神格化して祀った神祠なのであって、要するに鷲の神・鳥の神を崇めて酉の市が始まったということである。
2 花又参詣は博打の旅
郊外農村であったにもかかわらず、花又村の酉の市のにぎわいはなかなかのものであって、江戸市中から多くの参詣客がおとずれ、「田の中が霜月ばかり町となり」・「大たはけ町鑑で見る酉の町」などと詠まれた通りであった。江戸からの参経路は陸路と水路との二通りがあり、先の『四神社閣記』に「江戸よりの街道千住、三軒家、四家(千住四丁目分)、保木間新田、榎戸を経、凡四里。又四家より次郎左衛門新田、栗原新田、保木間新田を経る一道あり。行程同し。本所深川よりハ隅田川を北へ綾瀬川にそひ、伊藤谷・五兵衛新田を経て榎戸に至る。また江戸より舟行して榎戸に至るなり」とある通りであった。『十方庵遊歴雑記』を著した大浄敬順も、『嘉陵紀行』の著者である村尾嘉陵も、花又村の鷲明神を参詣しており、くわしい道中記をそれぞれ残している。特に大浄敬順は「頃は霜月十一日なりけり、是は前日初酉なれば花又村の鷲大明神へ罷らんものと、十日出宅し酉の町見物」(二編上「足立郡草加の大橋の景望」)をして草加に泊まり、翌日は野島村の地蔵尊へ参詣したといい、榎戸河岸のにぎわいの様子なども、くわしく記述しているのであるが(四編下「榎戸綾瀬川筋舟中眺望の風景」)、榎戸河岸は花又村の玄関口で交通の要衝でもあった。「此榎戸の土橋の此方に正一位鷲大明神といえる大幟を立、往來の頭の上に大行燈を懸て此邊より際だちて賑はしく、往人還る人引もちぎらず、多は江戸の人のみと見請ぬ。程なく花又村にいたるに群集する事大方ならず」(三編上「花又村鷲大明神」)とも、彼は記している。
このように、江戸からぞくぞくとやってくる多くの参詣客で霜月の花又村は、おおいにごった返したのであるが、参詣客のすべてが文字通りの「善男善女」であったとはかぎらない。実をいえば花又への参詣には、実に多くの江戸のギャンブラーたちが集まったのであって、花又へ行くといえば、それは博打を打ちに行くというのと、ほぼ同義なのであった。何しろそれは、参経路の沿道がすべて賭博場と化していたというほどのもので、郊外ゆえの取締りの弛緩状況もあったとはいえ、これほど公然と大っぴらに博打が黙認されていた所は、ほかになかったと思われ、諸書にそのことが記されている。人々は往路の綾瀬川の船中に筵を敷いてまずは壷を振り、「酉の市船でも伏せて行く所」・「船賃を増してやるわと壷を伏せ」・「酉の町船で毛氈行くところ」という有様で、船が榎戸河岸に着くと今度は路上に筵を敷いて露天賭場の開帳となり、河岸場から神社まで筵がずっと敷き詰められていたというからすごいものである。さらには神社の境内にまでそれが拡張されていって、「御神前まで壷と茣蓙敷き詰める」とまで詠まれるほどであった。「酉の町江戸をくらった胴が見え」というのも、江戸から追放された胴元がここ花又で賭場を開いている、の意である。
先の大浄敬順は『十方庵遊歴雑記』の中で、花又鷲大明神と博打風俗との関係を次のようにも述べているのであるが、かなり苦しい解釈ではあったろう。一応引用しておけば、次の通りである。
當社明神は、霜月酉の日を例祭とするが故に、鷲明神を御鳥と稱すれども、疑ふらくは神體鷲の鳥にてはあらざるべし。予倩案ずるに是天津火々出見尊を祭るならん。此尊は地神の第四番にして土師の氏の祖神なるか故ゆへに、はし明神といふべきを假名に誤りて、ハジをワシと讀五音相通より、いつとなく方言に随ひてわし大明神と稱へ來りし事と見ゆ。例せば出雲國大社の國祖は土師の尊の御末にて、後醍醐帝の時大納言の官を與え賜はんとありしに、大納言は人間の官なりとて辭退し請賜はざりしといひ傳ふ。今此大明神もワシといふより、鷲は諸鳥の中には大鳥なれば大鳥を御鳥と誤り呼ぶと見ゆ。是によりて日本の諸鳥の中に猛鳥にして飽までこころ太く力又逞ふ鷲に勝べきものなし。是故に運の神と稱し、博奕諸勝負を好者は、取分て信頼し、或は鷲の鳥に因んで熊手笊梢(ザルイカキ)の類を社頭にひさくと見えたり。
その後、明和・安永年間(1764〜1781年)に花又の博打が徹底的に取締の対象となるにつれ、酉の市のにぎわいもどんどん衰微していったものらしい。大田南畝の『半日閑話』にも、「安永二年十一月、葛西花又村酉の市の路次に博奕を禁ず。参詣の人自ら少しといふ」とある。本家の衰退とともに、千住や浅草の方の酉の市はますます盛大化していき、酉の市の中心が北郊から江戸市中へと、しだいにシフトしていったということなのであろう(注6)。
3 納め鶏と「鶏の市」
もちろん花又村鷲大明神の祭礼は、博打だけが名物であったわけではない。そこには盛況な門前市が立ち、それが酉の市なのであったが(写真1・2)、当初は素朴な農民市であったようで、農産物や農具・生活雑貨などを売っていたらしい。そこでの売り物の竹の熊手が、なぜか実用品から縁起物への発展を遂げていき、今見るような、大きく華やかな飾り熊手が生み出されていったわけである(写真3)。また、それとは別に小型のミニチュア熊手も昔からあって、カッコメ(掻き込め)・ハッコメ(掃き込め)などと呼ばれていたが(写真4)、福を掻き込む、掃き込むの意で、女性が正月の三が日中、それを髪に刺して飾ると開運のご利益があるともいわれていた。これらはみな花又で生み出されたものといわれているが、現在の大鷲神社の酉の市では、大型の方は露天商が売り、小型の方は社務所から授与されている。
写真1 花畑鷲神社の酉の市
写真2 花畑鷲神社の酉の市
写真3 酉の市の飾り熊手
写真4 カッコメ
明治時代における花又の酉の市の様子は、『風俗画報』に次のように記述されているのであるが、ここには「吉原の裏に當れる葛西花又村鷲大明神社」などとあって、浅草田んぼの鷲神社のことを誤記したものらしく、花又と浅草の記事とが混同されているようなのであるが、それなりに興味深いので、あえてそのまま引用してみることにしよう。
酉の祭(まち)はとりの町又とりの市ともいふ。此月酉の日に吉原の裏に當れる葛西花又村鷲(わし)大明神社にて祭事を行ひ參詣の人群集雑踏いはん方なし。今は大鳥神社といふ。年により酉の日三度あれば亦三度市立つ故に一の酉二の酉三の酉と呼ぶ。昔より酉の市三度たつことあれバ其月の内吉原郭内に必ず非常の異變ありと傳ふれど今年は恰も三度ありしが別に變れることもなかりき。昔しは參詣の人多く鶏を納め祭り畢ればこれを浅草観音の境内に放つ故今も観音の境内には鶏多く居るなりといふ。此日市に商ふもの熊手、粟餅、芋魁(いもがしら)のゆでたるものなり。參詣の者多くこれを買ふて帰る。中にも料理店待合其他總て客を待家にては必ずこれを買はざるはなし。これは酉は取り込むといふ縁に因み熊手は掻き込むといふ縁喜なりといふ。其熊手といふは竹の先に檜扇を附け中などにおかめの面を附けたるものなと通例にて其他寶船鶴龜などの芽出度もの大小幾様もあり。酉の市は下谷千住等にも立ちしが近年は向嶋秋葉社内深川公園地内にも立つこととなれり(注7)。
三の酉まである年は吉原に異変があるとの伝承は、もちろん浅草の方でいわれてきたことで、一般的にはそういう年は火事の多いといわれている。1657年(明暦3年)1月18〜19日に発生した、いわゆる「酉の年大火事」の記憶が、そうした伝承を生み出したともいわれている。明暦大火は確かに、開府以来の江戸の町が初めて経験した大火であって、吉原もその時に炎上し、新吉原への移転のきっかけとなった。『落穂集』には酉年大火のくわしい記載があるが、この時の焼死者の慰霊のために建立されたのが今の本所の回向院で、これを契機に大名火消の火事装束(火事羽織)の制が整えられていったと記されている。酉の市の売物が熊手と粟餅と芋頭であったとあるのも、おもに浅草での話であるが、大正時代の絵図などを見ると(注8)、露天商がそれらを並べて売っている様子が描かれていておもしろい(図1)。
図1 熊手・芋頭・粟餅を売る婦人(『風俗』1巻4号より)
もちろん花又でも芋頭は名物で、「綾瀬を通る屋根船に唐の芋」という川柳もある。さらに、参詣客が鶏を神前に奉納したとあるのは、主として花又についての記録と見てよいことであろう。『風俗画報』主筆の山下重民氏も、「葛西花又村の大鳥神社は俗間殊におほとりと稱し最も古しと云。此日近郷の農民家鶏を奉納し翌日之を淺草寺観世音の堂前に放つの例あり。今尚ほ然るや否を知らす」と述べておられる(注9)。
つまり、それがもっとも重要な点なのであって、花又村の鷲大明神の酉の市では、生きた鶏を神前に奉納する習俗が実際にさかんになされていたのであり、それがための鶏小屋まで境内に設けられていた様子が、『江戸名所図会』にはきちんと描かれている。酉の市とは、まさに「鶏の祭り」であったわけであり、門前市では奉納用の鶏も売られていたらしい。鶏納めの習俗は昭和初期まで続けられていたそうで、その頃まで境内には鶏舎も置かれていたとのことであるが、同様な習俗は他の神社でも見られ(注2)、伊豆の三島神社などでもそういうことがなされていたという。花又では奉納された鶏が300羽ほど溜まると、そのつど浅草まで運び、観音堂の境内に放鳥されることにもなっていたというが、放たれた鶏は観音の仏力で雌鶏が雄鶏に変じ、決して卵や雛を産まなくなるともいわれていた。一方、その浅草寺側にもやはり雉の禁忌に関する古い伝承があり、鶏納めの習俗と何らかの関連を持つものであったかもしれない。浅草寺の網野宥俊師によれば、それは次のようなものであった。
淺草寺縁起によれば、推古天皇の三十六年三月十八日に、現在の隅田川駒形橋の附近で、三人の漁師の網に聖觀世音菩薩が揚げられたと云ふことになっている。(中略)觀世音菩薩出現の日の夜から曉にかけて、數羽の雉子が、その尊像を御守護申しあげたと云ふ傳へがある。従って淺草寺の領内に居住の者、或は淺草觀音の信者等は古來から雉子を食すことを遠慮してゐた。若しその禁を破って雉子を喰べた者は、即座に佛罰を受けるものだと信じられて來たのである。そんなことがあってたまるものかと、江戸っ子の場違ひか何かが、雉子鍋で一杯やったところが、其の夜大變な腹痛で死ぬ程の苦しみをやったなどと云ふこともあって、信じ深い江戸人は淺草に來て雉子を喰べるなどと云ふことはしなかったらしい。今では淺草の松屋デパート等で、雉子燒を賣ってゐるから、用心が肝要(注10)。
同師はまた、浅草寺の境内に放たれた鶏がたくさん棲みついていたことについても、次のように述べておられる。
不幸にして鶏の種類なんか知らないが、規模の小さなチャボまでがゐる。みんな陽あたりの良いところに陣取って、くったくげもなさそうだ。「庭鳥のなにか言ひたい足づかい」全く天下泰平である。この納め鶏は何時頃から始まったか、恐らくは安永以後のことと想ふ。『江戸名所圖會』に依れば、下谷龍泉寺町にある鷲神社へ獻じた鶏を、その祭禮の後観音堂の境内に放つのを故例としたと云ふやうなことが載せてある。(中略)酉の日にお酉様へ鶏を獻じて、金の取れるやうにと、ややつこしい願かけが流行したものと見える。(中略)その納め鶏をまた盗むやつがあるのだから、上には上のあるものだ。公園のルンペン、バタ公などは時折締めるらしい。地方では大和の長谷寺の観世音に、小兒の夜泣きを止める祈願に、鶏の繪馬をあげるさうだ。また紀州の熊野神社でも神が鶏を好まるることで、その祈願者は鶏の繪馬を納める由(注10)。
現在の浅草寺の境内には、鳩はいても鶏の姿は見ない。今は鳩の餌を売る露店が見られるが、戦前は鶏の餌を売る店もあったそうである。鶏納めの習俗は、いまや完全になくなってしまったわけであるが、花畑や浅草の大鷲・鷲神社では、つい最近までそれが見られたのである。
4 花畑熊手の誕生と消滅
さて最後に、熊手のことについても少し触れておこう。単なる落ち葉掻き用の竹熊手がいつしか縁起物になっていき、ついには今見るような飾り熊手・福熊手になっていったということは、すでに述べた通りであるが、その発展プロセスを山中共古氏は次のように推察しておられ、まさにこの通りであったろう。
熊手と酉の市との關係は、元來此季節には落葉を爬く竹熊手の必要なる時であるから、此市で賣ったものである。東都歳事記の淺草田圃酉の市の圖を見るに、賣って居る熊手は何れも柄の長い實用の品で、只それにお福の面のみを附けて居る。天保初年迄は専ら此種の實用向の熊手のみを賣り、今の如き柄の短い飾り熊手は更に無かったのである。遊歴雑記に熊手の簪を花又で賣ったとあるが、熊手に種々の物を添へた起源は、多分は熊手の簪に在るのであらう。文化の初年より叶福助(かなふふくすけ)の玩具流行し始め、之につれてお福の面も招福の縁起ものとせられ、熊手にも附けたのが、次第に種々の物を附加へ、現今の飾り熊手となったのである。即ち變遷の順序は、(1)實用の熊手、(2)熊手の簪、(3)お福の面を附けた竹熊手、(4)今のやうな柄の短い飾り熊手であらうと思ふ(注3)。
飾り熊手を作る職人は現在、台東区の浅草周辺や、埼玉・千葉県下などにたくさん住んでいる。彼らは熊手の生産者であるとともに、販売者でもあって、自ら作った熊手を酉の市に出店を出して自ら売っているのであるが、そのおもな売り場所は浅草の方の酉の市であったため、浅草周辺に居を構えていたのである。職人たちは一年の間、毎日ひたすら熊手を作り続け、11月の酉の市でそのすべてを売り切るという生業形態であったから、作り貯めた熊手を保管する場所がどうしても必要であり、都心部ではなかなかそれを確保できないため、郊外移転が進んで、隣県への分散が進みつつあるというのが今日の状況であるとはいえ、今でも浅草周辺に残る老舗も何軒か見られる。各職人家では、おのおのの家伝の熊手の形式スタイルを伝えており、職人家ごとに微妙なその違いと特色とがあって、見る人が見れば、誰がそれを作ったか、即座にわかるともいわれている。
発祥の地である花又村、今日の足立区花畑地区においても、かつては熊手作りがなされており、元祖本家の伝統を引き継ぐ独特の、いわゆる「花畑熊手」というものがあったことは、注目に値しよう。花畑の周辺はかつて豊かな農村部であって大地主も多く、どこの地主家でも数名の奉公人・作男をかかえていたそうであるが、冬場や農閑期には作男の手がすいたので、余業として熊手を作らせていたという。当地はまた、里芋や超瓜(しろうり)の名産地でもあったので、それらの野菜の形を厚紙で切り抜き、胡粉を塗って彩色をほどこし、それを熊手の指物(装飾品)に用いて飾っていたが、後にオカメの面・七福神・宝船・大根・青菜・蕪なども取りつけるようになったという。近世末期には数軒の農家で副業の熊手作りがなされていたが、酉の市の中心が花畑から浅草へと移っていくにつれ、しだいに衰退していった。最後まで残ったのは今の新井昇家(足立区花畑2584)で、現当主の祖父にあたる子ノ吉氏が熊手作りを始め、1969年に75歳で没しておられるが、跡取の幸蔵氏は家業を継がなかったので、花畑の熊手作りは、1969年に途絶えてしまったことになる。それ以来、花又の酉の市には都心部からやってきた熊手屋ばかりが店を出すようになってしまったのであるが、それ以前は地元熊手屋の優遇措置があり、11月の酉の市には花畑熊手のみ、12月のそれには東京(都心部)熊手のみの出店が許され(花畑大鷲神社では12月中の酉日にも酉の市がおこなわれている)、しかも石段上の境内内庭に出店してよいのは地元熊手屋だけにかぎられていたのである(注11)。
花畑熊手が廃れてしまったのは、まことに残念なことであったが、その技術は今の浅草周辺の職人たちに伝えられていき、今日の東京熊手の原型を形作ったともいわれている(注3)。それは熊手作りの技術だけではない。頭の芋(とうのいも)と呼ばれる、先の芋頭の名物も、おそらくは花又から浅草の方へ持ち込まれたものと思われるし、小型の簪型熊手であるカッコメも、また同様であったろう。祭りの運営方式や市立のやり方などなども含め、多くのものが花又・花畑から浅草へと伝えられていったわけで、本家の方が博打の禁制によっておおいに衰微してしまったことの一方で、浅草の方は新吉原に近接することの地の利を活かし、ますます盛況さを誇りながら都市的な洗練を経ていった。典型的な江戸風俗・都市風俗とされているものの中には、実をいえばそのように、地方や周辺農村から原型を取り入れて、独自の発展を遂げたものがとても多いのであって、それこそが都市社会の文化の求心力そして活力の源であったにちがいない。市での売物である熊手や芋頭には、何となく鄙の要素も感じられるし、花又時代の農村的雰囲気がなお、そこはかとなく漂ってもいるとはいえないであろうか。
注
(1)長沢利明,2002「江戸東京歳時記をあるく―第2回:酉の市と熊手の縁起物―」『柏書房ホームページ』2002年11月号,柏書房,1〜4頁.
(2)長沢利明,2004「酉の市の起源―東京都足立区大鷲神社―(1・2)」『西郊民俗』187〜188,西郊民俗談話会,1〜6・15〜20頁.
(3)山中共古,1915「酉の市考」『郷土研究』Vol.2-11,郷土研究社,655〜660頁.
(4)松沢光雄,1979『酉の市と熊手』,古今書院,43〜46頁.
(5)宮本楷衣,1917「酉之市のマチと其祭神」『風俗』Vol.1-6,風俗社,24頁.
(6)山中共古,1919「板橋附近農家の副産物と酉の市に就いて」『武蔵野』Vol.2-3,武蔵野会,38〜42頁.
(7)東陽堂(編),1889「東京歳事記・十一月」『風俗画報』11,東陽堂,8〜10頁.
(8)三村清三郎,1916「酉の市」『風俗』Vol1-3,風俗社,裏表紙.
(9)山下重民,1891「酉の市」『風俗画報』34,東陽堂,12頁.
(10)網野宥俊,1985『浅草寺史談抄拾遺』,浅草寺山内金蔵院,165〜174頁.
(11)大鷲神社(編),1995『大鷲神社社史誌』,大鷲神社,212頁.
|