『江戸東京歳時記をあるく』
第39回:師走の煤払い
by 長沢 利明
2005年12月5日

1 煤払いと事納め

江戸の街に師走の寒風が吹きすさぶ頃、早くも新年を迎えるための一連の準備がいよいよ始まる。まず最初になすべきことは年末の大掃除であって、江戸ではこれを「煤払い」もしくは「煤掃き」・「煤取り」などと称した。煤払いこそは正月行事のスタートラインであり、一連の新春行事はすべてここから始まる。図1は『天和長久四季あそび』、図2は『案内者』に描かれた市中の年末風景で、人々は煤払いや餅つきにあわただしく立ち働いているが、門の外には正月用品を売る振り売りや、頭にウラジロの葉を挿して顔を隠した節季候(せきぞろ)と呼ばれる門付職たちの姿も見える。図1の解説には次のようにある。
  十二月のてい。極月ニなれバ一年のきハめ月とて、すすをはらひ十三日より事はじめとして正月の物をうりはじめ、もちをつけバせきぞろうばらがせがミ、物せわしき月也。さてせつぶんのまめうつ事ハ何のゆへにてか候。されバ年こしと世俗にいひならハして、こよひはあつきの夜行するゆへニ、きんちうにもいんやうれうさいもんをよみ上卿已下これをおふ。御所にともしびおおくともし、おそろしげなるめんをきて手にたてほこをもち、だいりの四門をまつる也。又てんじゃう人共御てんのかたニ立てもものゆみ、よもぎの矢にていはらふ。是らをかたどり、まめうちておにをはらふ事はじまれる也。
煤払いのなされる日はこのように、江戸の場合は毎年12月13日の事納めの日と決まっており、貴賤を問わずそうだったのであるが、上方などでは逆にその日を事始めと称し、正月準備を始める日とされてきた。『諸国年中行事』の12月13日の項にも「京(都)正月事はじめ、江(戸)すすはらひ、古札を納む」とある。この日が近づいた9日頃となると、江戸市中には荒神の絵馬などとともに、枝葉つきの長い青竹を売り歩く人々が往来したが、この青竹を煤竹(すすだけ)といい、大掃除の箒代わりに用いられた。煤竹は高い梁の上や屋根裏に溜まった煤を払い落すのに、まことに好都合な長柄箒になった。
 『吾妻鑑』の1236年(嘉禎2年)12月6日の条には、鎌倉時代の煤払いに関する記事があり、「大膳大夫を奉行と爲し陰陽師等を召して御所に於いて、歳末年始雑事日時之勘(かんが)え申し御煤拂の事相論有り、文元朝臣申云、新造は三箇年之内其憚有るべく云々、親元晴賢等朝臣之先達は指文無きと雖も、皆記し置く所也。新造に至りては煤これ無きの故や、煤有ば拂ふ可きや云々。所詮此條証據無く然ば煤拂御沙汰無く宜しかるべきやの由、仰出さる間各子細申さぬ也」と記されている。これはわが国最古の、年末大掃除の記録といわれているが(注1)、当時のそれは師走上旬になされていて、新築家では3年間、煤払いをしなくてもよかった習慣があったらしい。このことを引いて『東都遊覧年中行事』には、「按に新宅には三年すすはきせずといふは俗説にあらず、東鑑に諸司評論して将軍の新館にすすはき、竹を入れざりし事をしるせり」と述べられている。なお禁中については、かなり後の時代にあたる『親長卿記』の1470年(文明2年)12月17日の項に、「両御所煤払也」とあるのが初見のようであるが、一説に陽成天皇の頃からそれがおこなわれるようになったとも伝えられている。

図1 江戸時代の煤払いと餅つき(『天和長久四季あそび』より)

 

図2 江戸時代の煤払い(『案内者』より)

 


2
 宮中および将軍家の煤払い

さて江戸東京の煤払い・年末大掃除のやり方は、各階層ごとに実に多彩なものがあって、形式化・儀式化の傾向も見られ、要するにそれは単なる清掃作業のみではなかった。庶民クラスのそれは、また後の機会に述べるとして、ここでは上層の部類について見てみることにしよう。その最上位に位置するのは当然、東京遷都後の皇室であって、明治時代の宮中の煤払いの様子は次のようなものであった。
  宮中の御煤拂は、例年十二月五日より廿五日に渉る期間に於て連日執行され、主殿寮諸官指揮の許に人夫を役して從事せしむる例にて、宮内省各詰所より初め順次皇宮内に及び賢所、錦鶏の間麝香の間等を洒掃し了り、御座所は廿二三日頃御都合を見計ひ執行し、東宮御所、芝離宮、濱御殿、赤坂離宮等も同時に行ふ都合なるが、煤竹其他の用材は新宿御料地より伐出して、運搬使用すとの事なり(注2)。
宮中用の煤竹が、今の新宿御苑から切り出されていたことはおもしろい。なお京都に残った旧公卿家でも、「華族士族の今も舊を守れる屋敷には、古事式の『御すす』と標し、門を鎖して、竹の葉を出せるを見る、今出川、寺町邊にあり」といった旧例が、当時はまだ守られていたようである(注3)。
 近世の将軍家すなわち江戸城内では当然、12月13日が煤払いの日で、もとは20日であったが3代将軍家光公の忌日(祥月は4月)なのでそれを避け、1640年(寛永17年)以降、この日に固定されたとも伝えられる(注4)。1690年(元禄3年)版『江戸惣鹿子』にはこの日を「御事納(をとこおさめ)、御すすはらい」と記しているが、1697年(元禄10年)版『国花万葉記』には「八日御事納御祝、十三日御煤掃」とあり、12月8日のいわゆる事八日の日を事納めとし、13日の煤払いを「御煤掃(おすすはき)」と表記している。1838年(天保9年)版『殿居嚢』には、「十三日例刻、ふくさ麻、御煤納御祝儀、御台所御節会御料理、今日より始て遠御成有之」とあって、近世後期の江戸城内では御煤納の御祝儀ということがなされており、事納めと煤払いとを合わせたような呼び名となっている。江戸城内の年末大掃除の様子は、次のようなものであった。
 御年男は老中、大奥御年男は御留守居にて、子持筋ののしめ同長袴を著し、十三日朝六時前、御奥より案内ありて通り、将軍の寝室御著座の間を拂ふ。但煤竹ハ毎年御代官所より納る所にして、雌竹雄竹筒そろひ直なるを、二本水引にて結び合せ、根松藪かうじ長のしを附るを例とす。夫より御次ハ殘らず御下男、麻上下を著し、右相濟みて御目見、吸物酒を賜りて退出、尋て御下男頭使にて、御年男に白米一俵、鹽いなた三尾、薄縁故座三枚、赤椀(三ツ組)三具、山折敷三枚を賜ふ。此品を元日御年男の夫婦家司一人上下三人にて之を祝ふと云。此日殿中は服紗小袖麻上下著用。評定所ハ立合なし(注1)。
ここにいう年男とは、正月行事のいっさいを取り仕切る儀礼的な役職のことであるが、煤払いもまたその年男の管轄する仕事となっていた。つまりはそれは単なる清掃作業ではなく、新年をまじかに控えてのめでたい祝事となっていて、さまざまな祝儀が振る舞われたこともよくわかる。作業が終ると、狩野家より奉じられた恵比須・大黒・福禄寿の3幅のめでたい表具が、将軍の御座所に掲げられることにもなっていた(注5)。

 

3 江戸城大奥および遊里の煤掃き

同じ江戸城内でも、大奥での煤掃きの場合はどうであったろうか。これまた、なかなか盛況なものであったらしいが、明治期に描かれた『風俗画報』の挿絵などを見ると(図3)、女中たちが年男を胴上げするシーンなども描かれ、「是は男めづらしきがまま人情より斯る戯もせしなるべし」などと記されているが(注6)、畳替えなどのために男性職人・役人らが稀に立ち入ることがあったにせよ、女中らと顔を合わせることなど絶対になく、男子禁制の掟が徹底的に貫かれていたといわれる大奥で(注7)、このようなことが果たして実際に見られたのか否か、かなり疑わしい。やはり明治期の『朝野新聞』の記事などから、多少の疑問符つきで大奥の煤掃きの様子を紹介してみれば、次の通りである。
  十二月一日から十二日まで毎日御殿の煤を拂ふ。お次お三の間の女中一日交(がは)りに二十人宛襠(かいどり)をからげ木綿中形の前垂を掛け頭には白地に模様ある手拭を冠りて掃除す。御間に依りお中臈之れを指揮することあり。畢って女中へ太物手拭お肴等を下されその勞を慰む。煤拂にもお襠を纏ふなり。お次はお目見え以上なれば煤拂ひにもお襠を着くると勿論お三の間も上張りの積りにてお目見え以上の女中より古びたる襠を借りて着くるなり。左れば中にも借るべき襠なくて中形の浴衣などを纏ふも間々あり。固より不体裁なれども塵除けに纏ひたるなればお中臈も他目に見流し置くなりと聞えぬ。うら若き女中は手拭冠りて一群になりて拍々と掃ひ立つるなればその間には他の箒木吾が足に触れしとて罵り合ひ吾采配他の頭を掠めたりとて敵呼はり追ひ回はすなど遊戯三昧に渡るとあり勝なる業なるべけれど決して左るとなく極真面目にて騒ぎ廻るは愚か高聲に笑ひ興ずるともならず。總て物鳴の高からぬやう注意する計りなり。若戯るるとなどありと知られたらむには直ちにお年寄の詰所に呼び付けられて談義に辛き目見るべしとぞ。十三日煤拂ひ濟みたる祝ひにとてお留守居(表役人)は熨斗目麻上下(長上下)をいかめしく着飾りて手に長き笹竹を持ち間毎に上拂しつつ万々年と唱ふ。煤拂ひ濟みし翌日よりお疊を換ふ。疊師百余人お廣敷にて仕事し出し入れの時はお廣敷御用人附添ひ表使の女中一々案内す。因に云ふ、お煤拂ひお疊換の時は御臺所は将軍の御座所へ御立退きあり。尤とも疊師百餘人もあれば百疊敷の座敷にても一時間を出でずして敷き換へらるるなり。左れば御立退きは暫しの間と知るべし。疊換へは毎年七月十二月の兩度なり(注6)。

図3 江戸城大奥の煤払い(『風俗画報』38号より)

 


なお図3に描かれている煤竹は、少々変わった形をしているが、これは竹竿の先端に羽根をつけた長柄の羽根箒であって「天井払い」と称し(注7)、大奥独特の掃除用具なのであった。
次に今度は、もう一方の女の園である新吉原の遊里について見てみよう。1768年(明和5年)版『吉原大全』には、「十二月八日事はじめ、十三日すすはき、家々ちがいあれど多くは皆此月はじめのうちにはきしまふ也」とある。8日を、事納めではなく上方風に「事始め」と称していたこと、江戸城内と同じく大掃除のことを煤払いではなく「すすはき(煤掃)」と呼んでいたことは、いかにも吉原らしい。明治期の考証家、山下重民も「一にすすはきと稱す。即ち煤をはき清むるの意にして、此稱ハ殿上の女房方のよひ初めし者ならむと云。さもあるへし。はらひとハあらあらしき詞に聞ゆれハ、はきと聊かやさしく呼易しと思ハる」と述べている(注1)。1844年(弘化元年)版『柳花通誌』には、「極月十三日は煤掃の規式あり。家によりて日限の替れるあれど、多くは此月の初めの内にはきしまう事也。此日、娼妓定紋の付たる手拭を染て、若いもの達にあたへ、座敷のすすを掃かる事を例とせり」とあ。遊女らは定紋入りの手拭を若衆らに与え、煤払いをやってもらったとのことであるが、もちろん太夫自らが掃除などおこなうはずもない。廓内の大掃除でさえ、吉原にあっては何によらず諸行事の盛大なイベント化がなされていたのであったから、これも一種のお祭りのようなものであったろう。
そうした事情は地方遊郭にあっても同様で、たとえばかつて伊勢参宮客でにぎわった今の静岡県静岡市の二丁町(にちょうまち)では、12月25日〜29日頃に煤払いが盛大におこなわれており、遊女らはその際に、日頃おもしろく思っていない遣手婆などを皆で捕らえては胴上げし、放り出して逃げるという習わしがあったという。煤払い後の胴上げは、まったく江戸の煤払いに欠かせぬ余興であって、今のプロ野球における優勝決定時の監督の胴上げのルーツは、そこにあったのかもしれない。そうだとしたならば選手らは、日頃の鬱憤晴らしに、監督を地面にほうり落さねばならぬことではあったろう。二丁町の場合、遊女本人ですら胴上げされることもあって、担がれた遊女は皆にソバを振る舞うきまりになっていた(注8)。長野県長野市の鶴賀新地では、12月12日〜27・28日頃に煤払いがなされていたが、大掃除にのぞむ見世の連中が異様な扮装をしたり、真面目に掃除をしている者の背後からそっと近づいて脇の下をくすぐったり、楼主・娼妓の胴上げをしたりの大騒ぎであったといい、その後は夜を徹しての祝宴が持たれた(注9)。これもまた、江戸の庶民風俗そのものの姿であった。

 


4 
浅草寺の煤払い

著名な寺社の煤払いについてはどうであったろう。1859年(安政6年)版『武江遊観志略』には、12月9日の項に「三田魚藍観音煤払開帳、日不定湯島天満宮煤はらひ開帳」とあり、12日の項にも「目黒不動尊煤払開帳、浅草観世音煤払開帳、平河天満宮開帳、谷中天王寺毘沙門煤払開帳」とあって、この時代にはこれら寺社で、いわば煤払いを呼び物にしつつ、それに合わせて盛大な開帳神事・法会がなされていて、多くの参詣客を集めていたことがわかる。これはまったく幕末期の特徴であって、それ以前の時代にはそのようなことは全然なされてはいなかった。小石川護国寺の一子院、護持院の僧侶などは毎年12月13日、江戸城にのぼって御煤納御祈祷をつとめることにもなっていた(注10)。上方にあっては割合に古い時代から、寺社の煤払い開帳ということがなされていて、『諸国年中行事』・『大日本年中行事』などを見ると、師走初申日の伏見稲荷、8日の奈良東大寺大仏殿および清水寺、13日の貴船神社、15日の石清水八幡、20日の嵯峨野清涼寺釈迦堂・知恩院・誓願寺・東本願寺(「御煤払規式」の法会がなされる)などのそれが著名で、江戸の寺社もそれにならったということなのかもしれない(注1)。1851年(嘉永4年)の『東都遊覧年中行事』には、次のように述べられている。
  十三日、世上大かたは今日煤払(中略)、湯島天神すすはきとて今一日開帳。目黒不動同開帳。十二日酉の刻より今日巳の刻まで。浅草観音同開帳、十二日は申の刻より仁王門を閉て開扉あり、講中の外拝をゆるさず。平川天神同開帳。谷中天王寺毘沙門開帳。
家々の煤払いのおこなわれる13日を避け、その前日の12日に各寺社での煤払いと開帳のなされていたことがわかる。しかし、それも明治・大正期までのことであって、一般の家々ですら暮れの煤払いというものをあまりやらなくなってしまった結果、寺社のそれも廃れてしまう結果となったという(注11)。とはいえ、一部の寺社では長らくその風を伝えてきたのであって、浅草寺の「御煤払い(おすすはらい)」の行事などは、まさしくそうしたものであった。そこで最後に、かつて浅草寺の貫主を長らく勤められた網野宥俊師による記録をもとに(注12)、これについて紹介してみることにしよう。
浅草寺の煤払いは、12月12日〜13日の2日間にわたっておこなわれる。初日は観音堂内のもっとも神聖な場所、すなわち本尊を安置した御宮殿(ごくうでん)の周辺のみ、翌日は全山の清掃がなされることになっている。まずは初日の作業であるが、御宮殿内の秘仏本尊厨子回りの清拭きと、慈覚大師作の御前立本尊の御身拭いが中心となる。今では午後6時から(以前は5時から)それがなされているが、かつてはこの日のみ申の刻(午後4時頃)に仁王門を閉め、境内の諸商人たちも店をたたんで退去したというから、非常に厳粛な儀式であった。観音堂内陣に入れるのは一山僧侶と開帳講の信徒のみで、御宮殿は午後4時頃、三方に三色の緞子の幕を降ろされて完全に隠されてしまい、その中でいっさいの作業がなされるが、外からはまったくそれを見ることができない。また、その間は外陣に整列した一山僧侶たちがえんえんと観音経の読誦を続けるのである。貫主はその最初の1巻の導師をつとめた後、白覆面をつけて御宮殿にのぼり、三譜代の手から鋏を受け取って錠前の封印を切り、御宮殿を開扉する。三譜代とは、本尊を海中から感得した檜前兄弟・土師中知の3人の子孫をいい、本尊の給仕役として御宮殿内への立ち入りを許されていて、もっとも神聖な場所の煤払い役をつとめることになっていたが、妙智院という寺の僧侶がそれを指図する習わしともなっていた(今では本堂部長格の僧侶がそれにあたる)。白紙の覆面姿の若い僧侶らも幕の中に入り、御宮殿外側の清掃をおこなっているが、仏具を動かす音のみが外に聞こえるのみである。
一般人が決してのぞくことのできない御宮殿の内部はどうなっているのかというと、そこは上段の間と下段の間とに仕切られており、いずれも総漆塗りの床に繧繝縁の小畳が2枚敷かれた小部屋で、壁と扉は総金箔押しとなっており、両部屋の仕切りには錠前つきの扉があるという。下段の間には御前立本尊が安置されているので、まずはそれを外に運び出して畳を入れ替える。上段の間には秘仏本尊の厨子のほか、東福院自作の観音像、家康・家光公奉納の観音像、公遵法親王奉納の黄金の観音像などが安置されており、かつては『浅草寺縁起絵巻』や慈覚大師作の「柳御影版木」、寺宝の古錫丈なども、ぎっしりと詰め込まれていたという。これらもすべて一旦外へ運び出されるが、畳の交換は御宮殿の裏側にある非常口を通してなされる。作業にあたる三譜代は黒衣にたすき掛け、顔には白紙の覆面をつけて御宮殿内に立ち入るが、本尊厨子を拭う雑巾をゆすぐ浄湯には香水を少量入れることになっており、手桶は毎年新しいものを用い、これ以外には転用してはならない。ハタキ・手箒なども同様である。2時間ほどを要して御宮殿内の清掃が済むと、貫主は再び開扉をおこない、加持をおこなって煤竹で御宮殿の外側を払い、穂長の毛筆で御前立本尊の全身を払って御身拭いとする。その後、御宮殿を降りた貫主が再び導師となり、観音経1巻が読誦される中、三譜代の手で緞帳が巻き上げられていくが、読経の終了と同時に一瞬にして再びそれが降ろされる。貫主は再び御宮殿にのぼってその扉を閉め、封印をおこなって退場となる。御宮殿の扉が開かれているのは、わずか20分ほどの短い間であるが、これで初日の煤払いが終わったことになる。
翌13日には午前8時から、一山僧侶総出で観音堂内外陣・本坊伝法院・諸末舎などの大掃除がなされるのであるが、この日にかぎり年中不断の観音密供は休止される。かつては浅草南馬道(今の馬道1丁目1〜4番地)に家を持ち、境内で商売をしてきた29軒の「役見世」と呼ばれる家々があって、地代や運常金を寺から免除されており、その出店場所を「櫃代場(ひつだいば)」、当主らを「櫃親(ひつおや)」と称していたが、その中から境内名主・組頭(5名)・月行事などが選ばれていて、境内の警備や境内数ヶ所にあった自身番屋の運営、寺への雑用奉仕などをつとめてきた。煤払いの時には、彼らがそのおもな働き手となる習わしであった。作業は正午までには終了する。戦前は20日頃までに畳替えもなされていたが、今では隔年交換となっている。また現在では11日の夜に観音堂内外陣の清掃がなされ、その作業は地元の鳶職が担当することになっている。かつては煤払いに使用された煤竹やハタキなどは、縁起物として信徒に分け与えられていたのであるが、非常に希望が多いので分配に苦慮したともいわれている。現在では12日の夕刻から、御宮殿の両側に長さ2mほどの煤竹が1本ずつ、外の賽銭箱前に長さ4〜5mほどのそれが3本、立てかけられることになっているが(写真1・2)、これは儀礼的なもので、実際には使用されないとのことであった。すべての作業が終了したこの日の午後2時、観音堂内では貫主以下、一山僧侶が出仕して開帳法会(御宮殿開扉法楽)がなされる。観音経一巻がまた読誦され、世尊偈の段に入ると梵鐘・大伏鉦が交互に打ち鳴らされる中、御宮殿の御前立本尊の戸張が降ろされていき、読経終了と同時に緞帳も完全に降ろされる。貫主の手で御宮殿中扉と外扉の錠前が締められ、封印がなされると閉帳となり、ここにおいて浅草寺の煤払いはすべて終了となる(注12)。
なお参考までに浅草寺以外の寺社について触れておけば、たとえば葛飾区柴又の題経寺(柴又帝釈天)で12月17日前後、目黒区の瀧泉寺(目黒不動尊)で同22日前後、渋谷区の明治神宮で同28日に、煤払いが現在なされており(注13)、古式ゆかしいその姿を見学することができるので、あわせて紹介しておく。
 

 

写真1・2 浅草寺観音堂の煤竹

   



(1)山下重民,1892「すすはらひ」『風俗画報』47,東陽堂,3〜5頁.
(2)畫報生,1907「宮中の御煤拂」『風俗画報』355,東陽堂,2〜3頁.
(3)霞蝶園主人,1889「京都の歳暮」『風俗画報』201,東陽堂,6頁.
(4)東陽堂(編),1892「煤拂の事」『風俗画報』24,東陽堂,18頁.
(5)高橋おろか,1892「煤拂と節季候」『風俗画報』37,東陽堂,12頁.
(6)おろか,1892「舊幕府大奥煤拂の圖解」『風俗画報』38,東陽堂,11〜12頁.
(7)三田村鳶魚,1976「大奥の煤掃き」『三田村鳶魚全集』Vol.9,中央公論社,162〜167頁.
(8)香雲,1902「駿府二丁町年末の煤拂」『風俗画報』261,東陽堂,7頁.
(9)小山珍事堂,1999「信濃國長野市遊郭の煤拂ひ」『風俗画報』201,東陽堂,8頁.
(10)宮尾しげを・他,1969『東京風土記(北)』,東京美術,149頁.
(11)三田村鳶魚,1976「年の瀬」『三田村鳶魚全集』Vol.9,中央公論社,172〜174頁.
(12)網野宥俊,1985『浅草寺史談抄拾遺』,浅草寺山内金蔵院,113〜122頁.
(13)佐藤 高,1988「木場角乗りから歳の市へ―東京十・十一・十二月―」『江戸っ子』,アドファイブ出版局,23頁.





 


 
※ 執筆者紹介
ながさわ としあき 1954年群馬県出身。法政大学・東京理科大学非常勤講師
『東京の民間信仰』『江戸東京の庶民信仰』『江戸東京の年中行事』(三弥井書店)、『江戸東京歳時記』(吉川弘文館)